カナダでキャリア模索中の30代の日常

カナダのトロントでワーホリ終了後にカレッジで幼児教育の勉強をしました。オンタリオ州のRECEとして働いた後、現在は発達障がいの方を支援する非営利団体に勤めています。

ADHDと私

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私はADHD(注意欠陥・多動性障害)という脳の特徴と共に長年生きています。小さい時から得意なことと不得意なことの差が大きかった私は、学校など、人と足並みを揃えて行動しなければいけない場面では本当に苦労してきました。特に一番苦労したのは時間通りに行動したり遅刻せずに学校に通うことだった記憶があります。例えば、高校生の頃、朝学校に行く前にシャワーを浴びていた時お風呂場の汚れを発見し、ついでに掃除してから学校に行こうとしたところ、掃除に熱中し過ぎて気づいたら30分以上経過していて学校に遅刻したりしました。また、物をとりあえずよく無くしていました。携帯や財布はもちろん、ジャケットまでよく無くしていました。20歳くらいの時、努力してもどうしても上手く行かないことが多く病院に相談に行ったところ、お医者さんにADHDのことを教えてもらいました。帰ってお父さんに報告すると、『Mariは小さい頃から変わった子だしなんか普通じゃないと思ってたよ。』と笑いながら言われたので、やっぱりそうだったのかと納得。そして、同時によく自分は努力不足で人並みのことが出来ていないと自分を責めることもあったのでお医者さんにADHDだと言われてめちゃくちゃ安心したのを覚えています。私が怠けてるんじゃなくて私には障害があったんだと知れたのは自分にとって大きな出来事でした。ADHDだということは特に人に隠している訳ではなく、友達などには話の流れで話すことが多いのですが、中には障害なんて聞こえが悪いし、時間に遅れたり物を無くしたり、集中出来なかったりするのは誰でもあることだから気のせいなんじゃないって善意で言ってくれた子もいます。ですが、こちらとしては人と足並みを揃えて行動する為には平均的な人に比べてかなり努力して自分をコントロールしたりしているので、気のせいで片付けられるより私の脳や行動の特徴を理解して助けてくれる友達の方がよっぽどこちらとしては有難かったりします。個人的には自分の脳はちょっとユニークなんだくらいの感覚でADHDとも長年付き合ってきているので自分の大事な一部分になっている感じです。自称ミニマリストの私は学校、仕事や家族のことなど大切なことにより集中する為に少ないモノの量で生きていますし、カナダで幼児教育を学ぶことにした理由の一つが自分のADHDでした。私が日本で学生だった頃は自分が必要としていたサポートを受けれなかったと感じでいることもあり、今カレッジで学んでいることを生かし、発達障害の子供をサポートを出来る活動が出来たらとも思っています。なので、もし私がADHDでなければ今日存在する私にはなり得なかっただろうと思います。

現在、私はトロントのカレッジの4学期に在籍していて幼児教育の勉強をしているのですがちょうど今学期はChildren with exceptionalitiesという障害を持った子供達をどうサポートするかというコースを取っています。こちらのコースで障害をアイデンティティとして捉える考え方や、普通、普通でないという概念はどこから来ているのか、障害は社会に存在する様々なバリアによって発生しているという考え方(the social model of disability)を学んでいます。その中で、Person first languageとIdentity first languageのことを学びました。まず、障害がある方をどう呼ぶがに関してはその人が自分自身をどう認識しているかを知ることが大切だと学びました。その上で、障害はその人の全てではなく一部分でしかないという考え方をする場合、Person first language (A woman who has ADHD)を使います。ですが、disability(障害)をポジティブな言葉として人の身体や脳の多様性の一部だと捉えた時にIdentity first language (ADHD woman)を使う障害者の方もいます。私の場合、ADHDは特にネガティブなものではなく自分の特徴の一部であると考えているので私はこれからIdentity first languageを使って生きていくことに決めました。自分の中ではAsian womanのAsianの様な感覚で使っています。

今となっては自己肯定感が年々高くなって来ていますが、日本での学生時代は特にADHDのこともあり自分を否定しまくっていました。特に周りの大人から感じるプレッシャーも大きかったからだと思います。苦手を克服するって上手く行く場合もありますが、人それぞれ出来ないことがあっても当たり前くらいの感覚で生きる方が幸せに生きれる気がします。